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薩埵峠の戦い (南北朝時代) : ウィキペディア日本語版 | 薩た峠の戦い (南北朝時代)[さったとうげのたたかい]
薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いとも)は、南北朝時代の1351年(正平6年/観応2年)12月、駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦である。 == 概要 ==
観応の擾乱により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年(正平6年/観応2年)直義は桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。 尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した。直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩埵峠で合戦となった。 11月30日、尊氏は3000の兵力で由比の薩多山に自陣した。これに対して鎌倉に逃れていた直義は10000の兵を率いて三島の伊豆国府に本陣を置いて敵対した。尊氏は宇都宮氏綱などの関東諸氏と合流するつもりであったが、直義軍は山麓を包囲して合流を警戒し、尊氏軍は山上から応戦した。さらに直義は直常に命じて宇都宮を討たせるべく10000の兵で上野に派遣した。12月15日、氏綱には3000の兵で巧みに戦い、直常が敗北、その後軍勢を数万に増やして27日には箱根竹ノ下に到着した。直義軍は兵が潰走し、翌1351年(正平6年/観応2年)1月2日、相模国の早河尻で決戦したが敗北。1月5日に降伏し尊氏は鎌倉に入った。 この後、直義は大蔵浄妙寺の延福寺に幽閉され、2月26日に急死した。病死とされている。この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。
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